丸守の歴史
伝統の技法を守る 豆富の老舗 丸守の歴史
浜松で最初に創業した豆富屋
堀川家は、代々引佐郡三ヶ日町で麩やこんにゃくの製造・販売をしていました。
堀川守太郎が新たな需要を見込んで、明治30年の4月、浜松市菅原町で豆富の製造・販売も始めました。浜松における豆富屋第一号の創業でした。
時代が進むにつれ、かつての主力商品は急激に売れ行き不振となり、経営を苦しめました。麩のニーズは激減して売れず、また、こんにゃくは原料の芋を収穫時に1年分まとめ買いするため、大きな資金力が必要となります。悩んだ末、守太郎は堀川家代々の製品を切り捨て、それまで若干しかやっていなかった豆富一本に絞り込む大英断を下しました。
屋号を「丸守商店」とし、さまざまな困難を乗り越え、やがて引き売り人を十数名使うほどに店を伸ばしていきました。
その後、「丸守商店」を引き継いだのは守太郎の子息、守一でした。しかし昭和20年の浜松大空襲により「丸守商店」は、店や工場を焼失してしまいます。守一は必死の奔走で設備や原料を入手し、年内に営業を再開させました。
そして、昭和23年守太郎の死去に伴い後を継いだのが、守夫(元会長)でした。当時の国鉄浜松職員養成所に入社し、ボイラー技師の資格取得に懸命でしたが、守夫は祖父の死を機に、家業に戻ることを決意しました。
守夫は、美味しい豆富造りにこだわりながら、浜松では初のボイラー設備を導入し、着実に経営を伸ばしていきました。また、一方では、菅原町の浜松まつりの御殿屋台製作の準備長として奔走したり、自治会長を勤めるなど先代同様、地域文化の振興にも尽力しました。
平成5年、子息の一裕氏に経営権を譲り、会長として事業を見守ることにしました。
現在の社長堀川一裕は、守夫が病で体調を崩したのを機に昭和49年入社しました。
一裕は老舗を自分の代で潰すわけにはいかない一心で、戸惑いながらも必死になって豆富造りを覚えました。ヒット商品となった味付き稲荷を手がけるなど確実に商品力を高め、海外にも輸出し販路を拡げてきました。
平成7年、区画整理に伴い、永年営業してきた菅原町から現在の有玉西町に新工場を新築・移転しました。新工場は、豆富造りにかかせない良い水を見つける為に、ボーリング調査で土地を探すところから始まり、安心・安全な豆富造りの為の設備にもこだわって完成させました。地下には備長炭50tを埋設するなどして、土地の持つ“気”にも配慮しました。
工場内の南アルプス水系の天然水は豊富で、欲しい方々にお分けしていますので、近隣からも喜ばれています。